この世界の片隅ニュース

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東日本大震災から7年。

東日本大震災から7年が経った。

 

あの時、私は東京の会社で仕事中だった。初めは少しゆっくりした揺れた。デスクトップPCが落ちそうになったので、先輩とおさえていたのを覚えている。「結構、大きいな」なんてちょっと笑いながら。5秒後くらいに一気に揺れた。今まで感じたことのない大きな揺れだった。「やべ、これ洒落にならない!」先輩と顔を真っ青にしてPCをおさえた。

 

揺れが収まった後は当然、仕事なんか出来る状況じゃなくて、社員全員が会社から身内に安否確認の電話をした。携帯電話は全く使えなかったので、会社が社用電話の使用を許可してくれた。私は早めに親族と連絡がとれたので、散らかりまくった会社の整理をした。

 

電車が止まっているという報道もあり、会社に泊まるつもりだった。住んでいたいアパートは木造だったので、会社の方が安全とも思った。ただ、当時は都営大江戸線の近くに住んでいて、大江戸線は地下深く潜るため復旧が早く、夜10時くらいには動いていたので帰宅。家はそんなに散らかってなかった。

 

次の日は出社。私の会社は24時間システムが動いているので、誰かがいなきゃいけない。独身だったので、自分が率先して出社した。他にやることもなかったし。

 

1ヶ月後、予備校時代の友人が仙台にいたので、ボランティアも含め会いにいった。

仙台市内はもう落ち着いていて、特別混乱もなかった。直後はスーパーやコンビニからモノが無くなっていたらしいが1ヶ月もたてば日常をとりもどしていた。パッと見は。話を聞くと被災が大きかった地域から親族や知り合いの元に身を寄せている方も多いし、仙台に住んでいる人の中でも出身が海沿いの地域の方もいる。1日滞在では分からない「痛み」が街全体を覆っていたのだろう。

 

仙台から石巻に移動した。会社からの水や食べ物も持って。(今、思えばこれは自分への言い訳だった気がする。野次馬根性で行ったわけでは断じてないが、自衛隊でもマスコミの人間でもない自分が行って被災者の方にどんなメリットがあるのかを考えてしまった)

 

石巻の風景は今でも覚えている。多少は片付けれているものの、まだ市内に泥も残っていたし海沿いは瓦礫の山だった。言葉が無かった。今でこそ「復興」という言葉を口にすることは出来るが、あの時は言えなかった。

 

その後も半年に一回程度だが、被災地に「観光」に行く。子どもが産まれてからはあまり行けていなくなって、年一回になったけど。

 

観光という言葉に嫌悪感を覚える人もいるかもしれない。私はほとんどの被災地の方から、「東北に来てほしい」という声を聞いた。ボランティアも求められているが、それよりも単純に観光に来てほしい。(被災地への観光に関しては思想家の東浩紀さんが「福島第一原発観光地化計画」という本を出しているので一読してほしい)

 

 

たぶん、東京出身で東北に友人はいても親族がいない、転勤する可能性もない私が出来るのは観光しかないんだろう。歯がゆいけど、東北を観光して、東北を楽しんで、お金を落とすしかないんだろうな。本当に東北のご飯は美味しいしね。